日米の懸け橋 日本人を認めさせた化学者 高峰譲吉(1854〜1922)
高峰譲吉と言えばアドレナリンを世界で初めて抽出・結晶化した化学者として紹介したが、タカジアスターゼ(夏目漱石の「吾輩は猫である」で苦沙弥先生が服用する姿が描かれる程のヒット商品)の開発はもとより他にも日本初の人造肥料会社の設立など化学で社会に貢献した人物です。(幼少の頃は家業の医者を嘱望されていたが、「より多くの人を救いたい」という思いで化学を志したそうで)
実はこういった化学者という面以外にも、当時ほとんど知られて無かった日本をアメリカに広め民間レベルで親日家を増やした人物として重要な役割を担いました。
始まりは明治17年の米国ニューオリンズで開催された万国博覧会で、当時農商務省の職員として派遣された事からだった。(この時キャロライン・ヒッチと出会い婚約し後に結婚する。当時の日本としては極めて珍しい国際結婚である)その後人造肥料を製造普及させる為、職を辞し一化学者として活躍し、キャロラインの父からの要請で高峰の開発した元麹改良法をウィスキーのモルトに活用すべく(これはモルト業界により頓挫させられる)明治23年に渡米した。タカジアスターゼの発明・アドレナリンの発見はこの渡米後の事である。
こうした成功を収めた高峰の元に日露戦争を始めた日本から戦争外債を募る協力を求められた。ロシアと戦争をしている日本の立場と、日本人をアメリカ市民に理解してもらう為、高峰はそれまでの伝手で奔走し日本を喧伝しながらなんとか成功を収めた。(キャロライン夫人の献身的な協力も大きな助けとなっている)戦後も高峰は日本を理解してもらうべく倒れるまで東奔西走した。彼が亡くなった時、ニューヨークヘラルドでも「日本は偉大な国民の一人を喪ったとともに、米国は得難き友人を、世界は最高の化学者を喪った」と報じている。今回(2012年3月27日)に発行された「米国への桜寄贈100周年」に描かれているワシントンDCのポトマック川の桜は当時の東京市長尾崎行雄が贈った物で有名だが、ニューヨークのクレアモント公園の桜とハドソン河の桜はこうした活動の一つとして高峰がリードして実現した物で、今でも日米親善の象徴として咲き誇っている。