バンティングとマクラウドはインスリンの発見により1923年ノーベル生理・医学賞を受賞した。 インスリンの発見が1921年だった事を考えるといかにこの発見が注目されていたかが分かる。 しかしノーベル賞授賞式には二人の姿は無かった。
ノーベル賞受賞者といえば互いにその業績を讃えあうような美談もあれば、互いに反目しあい口もきかないような醜聞もある。 二人の場合は後者であった。
事の起こりは、バンティングがインスリンの実験を、当時ある程度名声も得たトロント大学のマクラウド教授に研究許可を申し入れた時に始まる。 マクラウドは当時様々な研究者が挑戦して未だに成功していないインスリンの実験を、片田舎の外科医であったバンティングに出来るわけが無いと見くびりその請願を冷ややかにあしらった。 (この時点からバンティング自尊心は傷つけられている) しかし、バンティングは諦めず三度目の交渉で、マクラウドが8週間の夏休暇で不在の間だけ実験室の使用の許可を取り付けた。 そして助手として当時大学院生だったベストを紹介された。
が、約束の8週間経っても実験は成功しなかった。 しかし、若い二人は「ここに我々がいたってマクラウド教授は痛くも痒くもあるまい」と開き直り研究を続けた。 そしてその一週間後、糖尿病の犬の血糖値を下げる効果のある抽出液を手にする事になった。 すなわちこれがインスリンの発見である。
マクラウドは当時のドイツ流(マクラウドはドイツで教育と研究を経験している)の考え方で、この発見の報告は自分がするべきと自ら論文や講演を数多く発表し、バンティングとベストは自分の指揮下で行ったという論調であった。 その結果ノーベル賞はバンティングとマクラウドの共同受賞となった。 バンティングは苦楽を共にしたベストを差し置いてマクラウドが受賞した事に強く反発し、賞金の半分をベストに与え彼が真の共同研究者である事を行動で示した。この時点ではもう修復不可能なまでに二人は反目しあうようになってしまった。
実際にはインスリンの発見の論文にマクラウドの名は無く、ベストとの連名である事からもマクラウドが受賞する程には値しなかったというのが現在の一般的な見解のようである。 この事は切手の世界でもバンティングの切手はいくつもあるがマクラウドの切手は左の一種類しかない事が物語っている。
マクラウドの弁明をするなら、助言等はあったようで、特にインスリンの大量生産と純化精製には生化学者のコリップと共に貢献している。
救いの美談: バンティングとベストはインスリンの製剤化で巨万の富を得る事もできたが、インスリンに関するすべての権利を1ドルでトロント大学譲り渡している。 お陰で糖尿病患者は安くインスリン治療を受ける事ができるようになっている。 金・金・金の風潮の現代では考えられない事である。