インスリンを巡って part2     バンティング(1891〜1941) vs. パウレスク(1969〜1931)

バンティング

 バンティングらが1923年ノーベル生理・医学賞を受賞したのは前述の通りが、この時このノーベル委員会の決定を激しく抗議した人物がいた。 ルーマニアのパウレスクである。 彼は、バンティングらの報告が自分の報告内容を故意にゆがめて引用したもので、自分こそがインスリンの発見者に相応しいと言った物であった。
 パウリレスクはパリで医学教育を受け、研究者としての経歴をスタートさせている。1900年に故郷のブカレストに戻り、4年後に生理学の教授となり62歳で没するまでその職に留まった。インスリンの発見に繋がる膵エキスの抽出実験にはパリ時代(1880年代終わり頃)に初めて挑戦し、帰郷後ふたたびその実験に着手し1916年に一時的ではあるにせよインスリンの効果に気付き始めたようである。しかし、不運な事にブカレストが戦争でドイツ軍に占領されたため研究は中断を余儀なくされた。
ルーマニアの英雄 パウレスク
 パウレスクの実験の再開は1920年、そしてバンティングらが実験を始めた1921年5月までにはルーマニア学会で報告をし、8月には詳報をフランスの学会誌に掲載している。(バンティングらがトロント大学の第一報に先立つ事3ヵ月) 実際の報告はバンディングら程劇的な物ではなかったが、インスリンの効果はみられたようである。しかし、エキスの実用化に成功したのは1924年でバンティングらの後塵を拝している。
 現代ならばパウレスクもノーベル賞受賞も共同受賞と言う事になったかも知れないが、当時のノーベル賞委員会はパウレスクの功績を顧みる事は無かった。パウレスクは「私は他人の科学的成果を盗むという・・・・・憎むべき非行を許すことはできない」という呪詛めいた言葉を残しこの世を去っている。 ちなみに今でもルーマニアではパウレスクがインスリンの発見者とされており、二度ほど切手にもなっている。


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